
日本の幻灯機の歴史は、江戸後期(1803享和3年)、三笑亭都楽が木製の幻灯機を作って「江戸写し絵」と称して人々に見せたのが始まり。これを富士川都正が上方に「錦影絵」と称して伝えたことから「錦影絵」は始まった。
木製の本体(風呂)と彩色された薄いガラスをはめ込んだスライド部(種板)が写し出す和紙スクリーンの映像が色彩豊かで鮮やかであることから、「錦の影絵=錦影絵」と表現したのは、如何にも関西らしい呼び方である。
西洋の幻灯機が重い金属で出来ているのと違い、日本の幻灯機はコンパクトで軽い木で出来ているため、幻灯師が風呂(幻灯機)を抱えて動きながら映写する ことができ、同時に数台の風呂を操たりもした。絵が動くように手の込んだ仕掛けを組み込んだ種板(スライド部)と、映写方法を工夫することで、動く映像と して日本独自の映像文化を築いた。
しかし、映画が普及するにつれ、日本の幻灯機は昭和の初め頃で廃れてしまった。