子どもが生まれて知った言葉の持つ大きな力
先につくるのは詞かメロディか、とときどき尋ねられる。
かつて私は断然、メロディでした。言葉は人が、音楽は天がつくったものだと考えていたからです。人災は因をつくった者に罰が与えられるが、天災では天が告発されたりはしません。天の意はそれほど崇高。だから、メロディはそれだけで充分、それ以上の解説は要らないと思っていました。そして、詞はスポーツ番組での蛇足の解説のように感じることがあって嫌いでした。
でも、私に最初の子どもが生まれたとき、その屁理屈は崩れました。その子は天使に見えた。天から来たのはメロディだけではなかったのです。そして知るかぎりのメロディより美しかった。我が子をとおして教えられたことーーそれは言葉の重要性でした。
「寒くないか」「人としてこう生きてほしい」などなど、コミュニケーションは直球を投げるようにして成立しました。親子間の問題を言葉が何度解決してくれたことか。
人工物である“言葉”はどこか胡散臭かった。人がさらに歪めても許されるという危うさを人工物は秘めているからです。でも、親子は言葉を歪め合ってでもがむしゃらに理解し合おうとしました。 天をとおして人と人が交わることのできるメロディという崇高な暗喩を讃えながら、人と人が抱き合うように確かめ、赦し合うことのできる“言葉”を生み出し育てた人々に感謝したい。