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10代の思い出を語る【編集者 西川昌宏】 10代の思い出を語る【編集者 西川昌宏】

芸術計画学科 / その他
2021/06/11

ファッションに興味のなかった
学生時代が今の自分の礎

「スーツで会社勤めなんてイヤだ」という動機で芸大へ


現在はファッション雑誌『メンズクラブ』の編集長を任されていますが、17歳の頃はそれほどファッションに興味はなく、ブラックミュージックにハマっていました。実家に近い姫路のタワーレコードで『bounce』(フリーペーパー)を手に入れ、海外アーティストの情報を得ることが音楽との接点。オシャレな親友と連れ立って、神戸や三宮のクラブに行くこともありました。


とはいえ、音楽業界をめざそうということでもなく、将来像はハッキリしていませんでした。


大阪芸大を選んだのは、普通の大学とは違い、音楽や映画という自分の好きなことに集中出来ると思ったから。芸術計画学科の入試には実技試験がなく、筆記のみだったのも魅力でした。若い時期にありがちな「スーツで会社勤めなんてイヤだ」という逃避的な気分もあったでしょうね。

大阪芸大時代の授業の作品づくりにも使った映写機と8mmカメラ。

音楽、映画の知識もファッション誌づくりに生きている


進学後は他大学の映画サークルに入るなどして好きな映画や音楽に時間を費やしました。


90年代初めはミニシアター系の映画館がトレンドで、ゴダールやフェリーニなどたいして内容も分かっていないのに、マイナー=かっこいいという不純な動機で観ていました(笑)。今思えば、あの頃に観たもの、聴いたものが今の自分の仕事にいきている気がします。


あとは音楽好きの仲間とクラブでイベントを開催したり、好きなことを自由にやっていました。大学の授業もおもしろかったですよ。8㎜カメラで映像を撮ったり、フリーペーパーをつくったり、いろんなことを経験出来たので。


出版業界への入り口は、知り合いの紹介で得た今の会社での女性誌のアルバイト。男性ファッション誌に移ってからは、スタイリストやライターも自分でやり、雑誌作りに魅了されました。最初から出版をめざしたわけではないですが、好きだった映画のビジュアルやレコードのアートワークなど、10代の頃から蓄積してきた知識や感覚が生かせているなと思います。


編集者には雑誌全体を俯瞰するプロデューサー的な資質が必要。それは専門性を深めるのではなく、全方位的に学べる芸術計画学科で得たことでもあるんですよね。


●西川昌宏(にしかわ まさひろ) 1975年兵庫県生まれ。メンズクラブ編集長兼エスクァイア・ザ・ビッグ・ブラック・ブック編集長。大阪芸術大学芸術計画学科卒。アルバイトを経て、2003年6月にアシェット婦人画報社(現ハースト婦人画報社)に入社。『ヴァンテーヌ』編集部を経て、2004年『メンズクラブ』編集部に異動。副編集長を経て現在は編集長に。

大学卒業後すぐに女性誌の編集部にアルバイトで入ったことが今につながった。
1990年代始めの頃の『bounce』や雑誌『BadNews』
ミニー・リパートン 、ボビー・ハンフリー、 ビル・ウィザースなど、70~80年代の SOUL、ジャズのレコード。 今見てもスタイリッシュなビジュアル。