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震災の復興協力、首相との対話。 ネットメディアが役立てること【佐藤尚之】 震災の復興協力、首相との対話。 ネットメディアが役立てること【佐藤尚之】

芸術計画学科
2021/10/25

たとえば今なら、鉄道や飛行機、ホテルの予約、銀行の用事からファストフードの出前まで手の中のスマホで済ます。なにをあたり前のことをと感じるだろうが、そんなサービスどころか、ネットの無かった時代はそう遠い昔ではない。

 個人的体験に沿ったネットやウェブの発達史として興味深い話をコミュニケーション・ディレクター、クリエイティブ・ディレクターの佐藤尚之氏にあらためて聞いてみた。


Text: Yoshio Suzuki

佐藤氏は東京生まれ。大学時代まで東京で過ごし、大手広告代理店の電通に就職。関西支社でコピーライター、CMプランナーを務めていた1995年、阪神淡路大震災に遭った。


「震災のあと、電気が通じ、テレビが戻ったときにニュース番組を見たら『いま、この震災が東京で起こったら』というような番組をやっていました。なにをやってるんだ。テレビはいちばん困ってる人に届けるべき情報を届けられるメディアではないことがあからさまになっていたわけです。テレビは消して、地震の揺れで家具の中に埋もれてしまったパソコンを掘り出してつないだんです」


パソコンはデスクトップタイプでモニターも液晶ではなく、CRT(ブラウン管)だっただろう。1995年の年末にウィンドウズ95が発売されてインターネットが普及することになるが、震災はそのおよそ1年前。文字ベースのパソコン通信はそれなりに普及していた。現在のようにウェブサイトは充実していなかったけれど、佐藤氏は仕事と趣味の両面でネットを使っていた。


「リンク集をたどっていったら、神戸の状況をテキストですが、発信してる人がいたことに衝撃を受けました。それは、必要な人に必要な情報を届けることができたということ。しかもマスメディアではなく、個人からのもので、ほぼ無料で発信できるということに」


避難生活を終え、すぐにサイトを始めた。発信する人はすでに複数いたが佐藤氏のようなプロの書き手によるものは少なく、ほどなく人気サイトになった。彼自身の本業に照らし合わせての感慨があった。テレビ局、広告クライアント、雑誌出版社に頼らず、自分のリスクで一人称で発信できるなんて有史以来ということ。


佐藤氏が立ち上げた食にまつわるサイトは次々に人気になり、本にまとめられた。サイト上のコンテンツが本になったものでは最も初期の部類だ。やがて、会社からは東京に呼ばれ、ネット関連が仕事になっていく。


2009年に個人の立場で携わったのだが、当時の民主党、鳩山由紀夫内閣のとき、鳩山首相のSNSによるコミュニケーション戦略を担当した。「ここ(SNS)に首相が降りてきてください」と提案したのだ。2011年、電通から独立した年、東日本大震災を機に「助けあいジャパン」などの支援団体を立ち上げた。


震災だったり国政だったりというような大きなことを前にして、その最前線でネットによってきめ細かい発信、活動で役立とうとしてきた彼に、今のSNSの現状についても聞いてみた。


「SNSでシェアされたり、炎上したりするのはすべて感情がもとになってるんです。そしてそれは広く拡散するのではなく、狭く濃く、次から次にクラスターからクラスターに伝わっていって、総量は大きくなっていくという図式をたどるわけです」


ネットによって、かつてそれぞれの人の内部にもあったはずの知識は外部化されていった。一方、感情は残り、人々に所有されたままであるという現象も見過ごすことはできないと。これも興味深い話である。

インターネットの発達に沿って活動してきた佐藤さんだが、「今の日本の子どもはデジタルネイティブからはほど遠い」と話し、表をしめしてくれた。 「OECD(経済協力開発機構)による生徒の学習到達度調査です。たとえば〈学校のある日に、学校以外の場所でインターネットをどのくらい利用しますか(携帯電話での利用含む)〉 の質問では日本は下から2位。OECD平均を遥かに下回ります」

●佐藤尚之(さとう なおゆき)

コミュニケーション・ディレクター。大阪芸術大学芸術計画学科客員教授。(株)ツナグ代表。(株)4th代表。(株)ファンベースカンパニーファウンダー。復興庁復興推進参与。一般社団法人助けあいジャパン代表理事。やってみなはれ佐治敬三賞審査員。花火師。株式会社「電通」元・社員。