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Interview

にぎやかなキャンパスで
過ごした濃密な時間は、
20年後の現在につながっている。
にぎやかなキャンパスで
過ごした濃密な時間は、
20年後の現在に
つながっている。

舞台芸術学科卒
羽野晶紀
京都府出身。大阪芸術大学在学中から、関西の小演劇ブームの中心だった『劇団☆新感線』に参加。演劇活動の傍ら、関西のTV番『現代用語の基礎体力』などでブレイク、その後、全国進出し、TVドラマ、映画、舞台でなどで幅広く活躍。2002年、結婚・出産を機に一時期休業したが、復帰後は、関西テレビ『よ~いドン!』のレギュラー出演ほか、様々な情報番組やバライティ番組などで活躍中。

あっという間に、
いろんなことが変わっていき、
始まっていった。
あっという間に、
いろんなことが
変わっていき、
始まっていった。

一歩踏み出すことからすべては始まった

中学生の頃から舞台やダンスに関心があり、将来はそういった関係の仕事がしたいと思いはじめていたんです。その頃観た映画の「フラッシュダンス」に勇気をもらい、高校に入るとダンス教室に通うようになりました。「どんなことでも、まずは一歩踏み出そう」という映画のメッセージに共感したんですね。

高校卒業後の進路としては、特に大学にこだわっていたわけではなく、専門学校もいいかなと思っていたんですが、両親に相談したら、「視野の狭い高校時代に、そんなに急いで将来のことを決めずに、まずは4年間大学に行って考えてみたら?」と言ってくれました。高二のときに、はじめて大阪芸大のキャンパス見学に行ったのですが、そこにいる人たちが面白くて、刺激的でしたね。芸大のミュージカルコースは、ダンスやバレエ、声楽の授業もあり、自宅から通えることもあって理想的だと思いました。

でも、実際には芸大へ毎日1時間半かけて通うのは思った以上に大変でした。私は京都、奈良、大阪と三府県をまたいで通学していたんです。一限目から授業があるときは、始発に乗って行かなくちゃいけない。ミュージカルコースは一回生が15人くらいしかいなくて、上級生も当然少ないし、経験したことがないくらいに人間関係が非常に密でしたから、学校にいるときは楽しいし、さまざまな活動に誘われたりします。半年くらい経ったときに、学びのために、このままじゃ無理があると思い、「やりたいことがあるから下宿させてほしい」と、家族会議したこともあります。ここまで真剣に将来のことを考えた時期はなかったし、この時期に家族としっかり話せたことも、いい思い出ですね。

運命の日、学食から「劇団☆新感線」の稽古場へ

大学生活で大きかったのは、「劇団☆新感線」との出会いです。私が1回生のときは、劇団のメンバーが全学年に渡って沢山在籍していたにぎやかな時期でした。劇団員としては高橋岳蔵君、右近健一君が同級生で、ひとつ上が高田聖子さん、もうひとつ上に橋本さとしさん、4回生に古田新太さんや橋本じゅんさんがいました。


高橋君が同期では一番早く新感線に入りました。いつも、彼から「ダンサーが足りないから手伝ってほしい」と言われるんですけど、最初は逃げていましたね。大学に行くまで小劇場の芝居を観たことがなかったですし、劇団の人たちも、私には初めて会う人種というか、皆さん恰好からしてスゴくて‥。古田さんはロングの金髪、ジャージに雪駄でしたし、橋本じゅんさんは壊れた眼鏡を輪ゴムで止めていたんですよ。「この人ら、何してはんねやろ?」という感じで、正直あまり関わりたくないなあと思っていました(笑)。


私は、いろんな学科の人たちが、それぞれのスタイルで集っている学食の雰囲気が好きで、よく利用していたんです。ある日、ここで避けていた方々と偶然(?)会ってしまい、「いまから稽古場行こ!」と言われ、「うわー、断られへん」って雰囲気になったんです。その場には高田さんもいて、私も含めた一回生3人と一緒に、当時扇町のミュージアムスクエアにあった稽古場まで見学に行きました。行くと座長さんが「じゃあ、二人ペアでこの振り付け踊ってみて」と言うのでやってみたのですが、実はそれは次の公演用のダンスで、いつの間にか出演することになっていたわけです。「君らいつ稽古来れんの?」って聞かれたので、「毎日は無理です。九時には帰らないと怒られます」と言って、最初は早く帰らせてもらっていたんですが・・・。

学生と演劇生活 悩みは先生のひと言で楽になった

そのときはダンサーとしての参加でしたが、すぐに俳優もやるようになりました。それも自分からやりたいと言ったわけではなく、本番で配られる次回公演のチラシに知らない間に名前が載せられていて、「あれ? 私、次も出るんか」と(笑)。そんな感じで出演を続けていたのですが、公演を観に来てくださったテレビ局関係者の方がお仕事をくださったりして、撮影現場やオーディションにも行くようになりました。


初めて主役をやらせていただいたのは、AI・HALL(伊丹市立演劇ホール)の杮落し公演です。これはキツかったですね。それまで長いセリフをしゃべったことがなかったので、たった3行くらいのセリフができなくて。同じシーンを百本ノックのように稽古するんですが、私の場面だけで何時間もかかって先に進まない。できないことがすごく悔しくてつらくて何回も泣きました。

「これでいいのかな?」と思いながら稽古をしているうちに本番。公演後のアンケートには好意的に書いてくださる方もいたんです。でもこのとき私は「こんなの合格点ちゃうやろ。このままでは辞められへん」と思ったんです。それで自分の中での合格点を目標にやり続けていたのですが、そのうちにテレビやラジオのお仕事も増え、学校に行けなくなってきました。週7本くらいレギュラー番組をやりながら舞台にも出演していましたから、ある時期はあまり記憶がないくらい忙しくて。そんなときに大学のある先生からご連絡いただいたんです。「きっと卒業しても同じ仕事してるんやろうから、やめてもいいんじゃない?」って言ってくださり、そのひと言で気持ちが、本当に楽になりました。

大学は平等にチャンスをもらえる場所

大学に通ったのは2回生の途中までですが、濃密な時間でしたし、ここからいろんなことが始まったわけですから、いい思い出です。いまもつながりはありますよ。仕事の現場で大阪芸大の卒業生に会うことってほんと多いんです。「卒業したん? エラいなあ」なんて話をすると、打ち解けるというかちょっと関係がほぐれますよね。同期の人にふと出会うこともあります。20年たって再会すると、コンパやイベント企画が大好きだった人がプロダクションの社長さんになっていたり、リーダー的にパートをまとめていた人がダンス教室をやっていたり、なるほどなと思う仕事をされています。


大学生の頃は、青春のまっただ中ですから、そのとき楽しいと思えることをみんな一生懸命やっているだけだったりすると思うのですが、そういう時間は大切ですよね。それに大学は平等にチャンスを与えてくれます。たとえば演技の実習である程度の役をもらって、それを演じる機会があって、それを楽しめるなんて、実際には大変なことです。プロの現場は個人の実力や運で勝ち取っていくわけですから。下積みもあるだろうし。恵まれた環境の中で頑張れる経験は、すごく貴重だと思います。